エゴを知る(セッション3)

普段、何の気なしに、気遣いなく相手に向かって放った言葉の中に、しばしばエゴは見え隠れしています。


人は概ね、自分が正しいと思っていることを基準として、他人を測る傾向にあります。


たとえば、相手の行動や言動を、自分の正誤基準に当てはめて鑑み、正しくない、誤ったことをしている(言っている)と判定し、その誤りを正そうとします。


その行動は、相手に善かれと思っての“親切心”や“同情心”からかもしれませんし、はたまた、誤りを正さずにはいられないといった“世直し”的な正義感からかもしれません。


自分が親であれば、わが子への教育的立場からの使命感かもしれません。


相手よりも自分が目上ならば、なおさら、自らの経験や知識が物を言い、相手より上位にいるという自負心や、その役目に傲りやすいものです。


エゴの働きLesson3:「相手に罪の意識を感じさせようとする」


相手にこちらの想いを伝える時、初めは“できれば・・”程度の想いであったとしても、「同調(共感)して欲しい」や「分かって(理解して)もらいたい」との期待によるこちらの都合を相手への想いに盛り込みますと、エゴの働きにより、過去の因縁も伴って次第に、自我が主張するようになります。


相手が“そうしてくれて当然”、あるいは、相手へのこちらの態度は“こうあって当然”のように主張し、特に、その期待通りに成らない場合には、自我は満足せず、面白くないため、主張の機会を見つけては、「私の言う事を聞かなかったからそうなった」とか「言う通りにしていればよかったのだ」などと主張し、また、逆の場合であっても「私の言う通りにしたからよかったのだ」などと、常に自己満足を得ようとします。


相手の失敗や失態を機に、その行いを「こうしないあなたが悪い」と知らしめようとする想いは、自分の尺度によって相手の行動の善し悪しを審判し、その行動が“悪い=罪”であることを示して、罪の意識を感じさせようとする、エゴの働きによるものです。


今の自分が縁あって身を寄せている家庭、縁あって勤しんできた職場、どのような場、いかなる社会であれ、それは、過去世よりの因縁と自由意思によって自らが選択してきた環境です。


その環境は、自分が善かれと思うもの(人・仕事・物etc.)の選択を繰り返し、築かれた結果であり、言うなれば、エゴに任せた結果であるといっても過言ではありません。


自分に縁あって戴く環境の中、相手がどうあれ、縁あって戴いた人間関係ですから、相手との関係を善くするも悪くするも、自らの自由意思とエゴ次第と言えるのです。


利他の心とは、相手の立ち位置に立ち、相手の利益を考えることですが、精神世界でいう「利益」とは“幸せ”、人の霊的成長そのものです。


人はみな、幸せを目指して、成長を図っており、やがて成長を遂げてゆきますから、利益を考えるとは、幸せを思い、成長を願い、期待をすることです。


但し、多大な期待は、相手に重圧を与えないとも限りません。その、“あなたのため(を思って)”の行動や言動は、それ自体が慢心であったり、エゴの働きに感けたものである可能性があります。


相手に対する“あなたのため”との想い、それを当然のことと主張する想いに気づかぬまま、エゴに感ける時、加速度的に「何とかしてやらなくては」との正義感や使命感、傲りに翻弄されます。


自我の働きに気づいていなければますます、自我は意固地になり「なんとしても、そのように知らしめる(分からせる)」との過剰な想いに発展し、ますます、相手に罪の意識を感じさせようとしてしまうのです。







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