人の心は本来もっと自由で心地がよいもの♪
心のレシピは あなたが本来の心を取り戻すためのお手伝いをします。
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「人はみな、自分勝手」かもしれません。でも、だから「通じ(理解し)合えない?」
いえいえどうして、その実、心は言葉に先んじて相手へ届いています。
塾生:先日、電車で疲れた顔して目を瞑って座っている方を目の前に、ふいに“そんなに頑張らなくていいですよ。だいじょうぶ”と思ったのです。
そのうちその方は、電車を降りる際「ありがとうございます」と仰って。
センセ:そうですね。労いの心、人を思いやる想いが先方へ通じた証し。素晴らしいお仕組みを戴いていますね(^^v
塾生:はい。やはり“想いはじめにありき”なのですね。声に出して言うには少々勇気が要るもので・・なかなかできないですけれど(照れ笑い)。
センセ:そうですね。声掛けを要する場面もあるかと思いますが、何分、言葉で伝えるよりも先に、想いは伝わってゆく仕組みゆえに。
たとえば、「想えば通じる」ことを意識してみる。すると、その想いは念じられてシンクロしやすくなる。これは、心の属する精神世界の実際。なぜなら。。
心は、想念によって通じ合っているものだから。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
次のLessonは・・・
心は自己意識の成長の鏡
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「心は見えないが、意識できる」
心は人の精神面で、潜在しているために肉眼で捉えることは不可能です。が、意識はできます。なぜなら、人の想念を構成する「意識」だからこそ、意識できる。え?冗談??のようなお話ですが・・ホント、意識たちの真理、実際です。
塾生:人は、見えない「心」を信じていて、天は、人の心の成長を待ち望んでおられる。やはり、心は意識の成長のカギと考えてよいのでしょうか。
センセ:そうですね。心は、私たち人の精神が成長するためにとても重要な部分だと考えられています。
塾生:潜在意識にもかかわらず、どこか、顕在的に捉えられているような・・微妙な位置づけ?にある意識ですね、「心」って。
センセ:そうですね。そこが、心にくい(?笑)配慮かもしれませんね。過去世の覚えがなくても、心自体を多少なりとも意識できれば、成長の糸口は掴めるはずです。
意識できる、というよりも意識しやすい「心」。心は潜在意識で在りながら、顕在化されているような、意識しようと思えば容易い「意識」。そして何より―――私たち人の創造主天は、心を人の成長に欠くことのできない重要な要素として備え授けておられる。
実際、霊的成長(精神向上)に伴って、心の動きが意識しやすく、気づきや理解も深まって、それが自己意識の成長の実感にも繋がってゆく。
心は自らの成長を映し出す鏡となって、その成長段階を示しているのです。。。
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次のLessonは・・・
ストレスは心の問題に起因する
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「そもそも、心はストレスの要因を抱えている」
私たちは日々、様々なストレスに苛まれています。「病は気から」の通り、心のストレスが体に及ぼす影響は大きく、放って置くと心は荒み続け、体まで蝕まれてゆくことに。
塾生:仕事が溜まってくるとストレスに感じて、会社へ向かう体も重怠い気がします。仕事の内容自体はイヤではないため、何がストレスなのか、意識して探ってゆくとある種の危機感?から来ているような・・過去世での経験が活きている?
センセ:そうですね。その危機感からくる不安は過去世のトラウマ由来、現状(顕在意識)では、たとえば“上司にせっつかれる”とか“評価が下がる”等々の望まない結果を想像してストレスを感じているようであっても、その根底には、過去世における辛い経験から心(潜在意識)に問題を抱えている場合がほとんどです。
塾生:なるほど(頷き)。過去の世ほど、生死を分けるような危機的状況を経験しておりその辛い経験を受け容れられずにトラウマになっている。その心の傷が今世でも、いっぱいいっぱいの状況になってくると疼いて、不安を煽り立てているのですね。
センセ:仰る通り、心はすでにストレスの要因を抱えてきているのです。
ストレスを環境や社会など、外的要因のせいにしてばかりいられない。むしろ、自己の内面である「心」に、ストレスを感じる要因が過去世から刻まれている。
そもそも、ストレスに感じる心には深刻なトラウマ有。トラウマの要因を本人が受け容れられていないため、外的要因に走りがちにもなる。
「ストレス」――実際は、過去の受け容れ難い苦しみに真正面から向き合うことを避けたことが心の傷;トラウマとなって今、心にストレスを与えて意識すべき問題を表面化させているのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
次のLessonは・・・
「愛」―心のエッセンスpart1
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「自己愛」とは―――。利己的な愛か? 利他愛とはどう違う?
塾生:「自分を大切にしなさい」と幼少の頃に母から教わりました。「愛する」って人に親切にすること、そのための思いやりを持つこと。などでしょうか。
センセ:そうですね。自分を大切に扱えることは「愛する」ためには必要不可欠です。但し「大切に扱う」とは決して、我がままや過保護に有利優遇することではありません。あくまでも利益や損得勘定、欲望に依存しない想いや行動です。
塾生:確かに・・。休むことなく仕事に打ち込み、いざ「休み」となれば大風邪を引いて寝込むしかなく・・休日の楽しみにしていた計画が台無しに。日頃から、体調よりも仕事を優先させてきた、自分を大切に扱っていない結果ですね(苦笑)
センセ:そうですね。「大切になさい」は「体を大事に」という教えでもあります。また、体を思いやることは、心を思いやることに繋がっており、肉体に及ぶ心の働きを重要視「大切に」することです。
塾生:確かに。「体の不調は心の不調の現れ」だからこそ、常に、心へ意識を向けて注意してその働き(想念)を把握してゆくことが重要。ということですね。もし不調を招くような心(想念)があれば適宜、適切なケアを行うこと。ですネ(^^)
自分を大切に扱えることは、他者に対しても同様の思いやりを発揮できる。
良かれと思ってのことが、相手にとって必ずしもそうとは限らない。
相手を思いやったつもりが、その思いやりが自己本位に偏っていれば、「大切に扱う」ことにはならない。
利他愛が「自分を差し置き(犠牲を払って)でも他者に利を与える」との理解ならば、それは真意の「愛」ではなく、また、利己的な「他者よりも自分の利益中心」とする想い(自利愛)は、自己愛に満たない。
上記はいづれも、自分と他者を同等の「人」として大切に扱っていない。
「自己愛」―――自己への思いやりは、他者をも大切に扱える“思いやり”となり、自・他を問わず「人」を愛することに通じている。
「愛」とは―――幸せな人生へ臨むために欠かせない
心のエッセンスのひとつなのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
次のLessonは・・・
「真」―心のエッセンスpart2
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はじめに―――“真(まこと)”の想いが「天」という
全ての創造のはじまりに、自らを成り出でさせるに至った―――。
塾生:「真」とは本当とか、本物とか真実という意味が一般的な理解ですが、そもそもは、創造主である「天」のみ意(こころ)が「真」であったことを想えば、もっとシンプルな本質なのでは・・・?
センセ:そうですね。天は、全てのはじまりであり、全ての起源。そのみ意は「真(まこと)」であり「成すべきことを真っ直ぐに成す」がその本質です。
塾生:素晴らしいですね。私はこれまで、なかなか自分の「成すべきこと」が見つけられなかった。今はおかげさまで悟らせて戴き、安泰です(微笑)。
センセ:そうですね(微笑)。天は、全く何も無かったところから「成す」ことをはじめ、全てを創造するに至りました。“すべき”ことの確立さえ莫大な時と労を要し、それ相応の辛抱心で臨まれたことにより、やがて私たち人が今日存在するに至った経緯はまさに奇蹟的なお働き、天の業(わざ)ですね。
成すべきことを自らに課し、創造するに至っては「真っ直ぐ」である必要があり、“すべき”と厳格に律しなければ「成らず」仕舞い。それでは、今日の私たち人類も何も存在しえなかったであろう。
全ての存在の源たる天が「真」により創造し、世の営みを続けている限り、末裔の子孫たる人類の心の中に「真」は受け継がれている。
人類の「真っ直ぐに成すべきこと」は、自らの心を、幸せを感じられる状態へ育むことであり、そのためには多少の苦労もいとわず、自らを律し、辛抱してなお「真」の幸福実現を望み続けること。
「真」とは―――幸せな人生へ臨むために欠かせない
心のエッセンスのひとつなのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
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「仁」―心のエッセンスpart3
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「仁」とは、人を愛する心―――。人と人が、お互いを敬意と称讃によって支え合い、協調と調和を以って共生共存を図り、共に幸せを望む、相互扶助の精神です。
塾生:儒学にても説かれている徳目の中で、この「仁」を会得するのはもっとも難しいと、孔子などは捉えていたようですね。
センセ:そうですね。単に「愛する」とか「相互扶助」と言っても、人が皆、同じ価値観であったならば、その理解も容易いかもしれません。が、魂は各々の成長段階にあってこそのそれぞれの価値観、その多様な個性ゆえに理解の仕方もマチマチです。大聖者とは申せ、孔子自身も苦心された様子ですね。
塾生:なるほど。「相互扶助」にはやはり、相互理解は欠かせないと言われますね。“相互”ですから、人が単独で「仁」を理解しているより、お互いに会得がなされていれば尚、早い。と言えるかもしれませんね。
センセ:そうですね。私たち人が志す幸福な人生や「人類総幸福社会」は、相互理解と相互扶助の下に成り立っています。人が皆、健やかで安らかな心でお互いを思いやり、「人を愛する」ことによって自ずと相互理解は深まり、真の相互扶助の精神は培われてゆきます。
世の営みの一環である魂は、自ら成長を望み、人を愛し、幸福な社会を目指していけるように、世の仕組みは働いている。
心もまた、自ら成長を望んでおり、それは「人を愛する」ため、幸福を望むため、安泰な生涯を送るために。「仁」は、その心の成長を促すためにある。
「人」という尊い存在へ敬意を払う、「人」という価値ある存在を称讃する。それらは協調性や調和を生み、互いの幸福を思いやる幸せな社会「人類総幸福社会」に繋がってゆく。
「仁」とは―――幸せな人生へ臨むために欠かせない
心のエッセンスのひとつなのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
次のLessonは・・・
「恕」―心のエッセンスpart4
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「恕(じょ)」って?――少々、耳馴染みのない単語のよう。訓読みの
「ゆる(恕)す」なら。。何となくでも・・頷けるかしらん?
塾生:儒学でも説かれているが、孔子は「恕」の心があってこそ、人生や人社会は安泰と感じていた様子。「ゆるす」には思いやりは必須?
センセ:そうですね。人が人を思いやって社会を成り立たせてゆくことは幸福な人生感や幸福な家庭環境作りを礎えとする天国社会の実現には
やはり欠かせない「心」でしょう。
塾生:思いやり「恕」の心を育てるには、カルマやトラウマによる人を
「赦せない」気持ちを解消する必要がある。ということですね。
センセ:仰る通り、何かを「赦せない」としたら、それは何故か。譬えばある行為や態度、言動を赦せない。あるいは、存在を認めたくないと
いった「赦せない」も、それ相応の過去世のカルマやトラウマに起因
していますから、解消なくしては人を思いやることができません。
人の幸福を願う気持ち、その想い(想念)こそが真意の“思いやり”であり社会の安寧に寄与する想いは「恕(ゆるす)」心から。
「人」とは他者のみを指すのではなく、寧ろ、自己自身のこと。たとえば自分の幸福は考えられるが、他者の幸福を思いやることがない場合、その思考は真の「人の幸福」には至らない分、自己自身が不幸な状態といえる。
相手を赦そうにも、自己自身を思いやり「何故赦せないのか」赦せない要因を見つけて解消しなければ赦せないままで、思いやりの心は育たない。自己の心がキレイに磨かれてゆくほどに幸福の真意;本当の幸せを知り得、その意義を理解して幸福度(感)が増す仕組みゆえ、自己の想念向上は先決となる。
「恕」とは―――幸せな人生へ臨むために欠かせない
心のエッセンスのひとつなのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
次のLessonは・・・
「信」―心のエッセンスpart5
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人は何かを「信じている」とは言っても、その「信」は、絶対的(100%)か?と問われたら・・どうでしょう。ちょっぴり・・心が揺れちゃう!?かも?
塾生:「○○を信じていたのにガッカリ」といった物事の受け止め方は、そもそも「信」が薄いからということでしょうか?
センセ:そうとも云えるかもしれません。その程度の「信」というより、真意の「信」ではなかったことに気づけたとしたら、むしろラッキー♪ですネ(^^)
塾生:なるほど、確かに(頷)。たとえば・・我が子への絶対的な「信」は親であれば当然、あって然るべきものでしょうか?それとも、情愛ゆえの執着に偏っていれば、やはり「信」とはならない?
センセ:そうですね。たとえ「我が子」であれ、執着から真の「信」は生れ難いもので、その逆、親に対しての「信」も同じこと。概ね人は、人に対して絶対的、100%の「信」を置いているかと言えば、そうではないのです。
人の絶対的な「信」とは―――
「明日もきっと生きていかれる(であろう)」環境や社会や家庭、諸々の状況が用意されていることを魂は知っている。だからこそ、今日一日を生きていられる。
それは、創造主に対する絶対的な「信」であり、その真意の「信」は、人に潜在する心や魂などの意識の内にあります。
顕在意識で捉えられるまでに「人」の意識が進化成長した暁に、人々の間で「信」は絶対的にほど近いものへと深まり、自己も他者も隔たりなく共に、幸福へ根差した社会を形成し、平和裏に安穏たる生を営んでゆくことになる。
もしも、そう「信じられない」ならば・・それは、人に備わる「信」を揺るがし、信じ難くさせている要因が自らの心にあるから。そのトラウマ、解消しましょう♪
「信」とは―――幸せな人生へ臨むために欠かせない
心のエッセンスのひとつなのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
次のLessonは・・・
「義」―心のエッセンスpart6
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心は、「人」として正しい在り方を、様々な体験や行動を通じて学んでいます。ところで・・その「正しい」って、いったい・・どのような在り方なの?
塾生:夫婦や親子、友人などの特に親しい間柄になると、かえって「ありがとう」が素直に言いづらいとか、“おかげさま”という謙虚な気持ちをつい忘れて過ごしていることは、やはり・・エゴゆえに。でしょうか?
センセ:そうですね。「今さら言わずとも(相手も)解っているはず」や「自分の方が立場(親・年配)が上(偉い)」という理由でしたら「エゴ」です。
塾生:そうか(!)。親しければなおさら、お互いさまで・・互いに何らか世話になっていたり、迷惑なども掛けているかもしれない。ということに気づいていることが大事なのですね。
センセ:仰る通りです。エゴは、人の自我(自己本位)の現れですから“おかげさま”の気持ちになれない理由に気づいていればエゴを弱められます。自己本位の想念に常時気づいていることは意識を成長させ、自ずと謙虚な“おかげさま”や心からの感謝へと進化してゆきます。
その心に備わる「義」とは、「人」として正しい筋道をゆくこと。
正(義)しく在るためには“おかげさま”の謙虚な想いは必須、“謙虚な心が正しい在り方を示す”といってもいいほどに。
感謝や恩に報いる行動も、この“おかげさま”の想いがなくては始まらない。
謙虚さは慎ましい心。心が本来在るべき正しい想念に向上すればするほど―――
その心は理路整然と清く正しく、幸福な社会へと通じてゆきます。
「義」とは―――幸せな人生へ臨むために欠かせない
心のエッセンスのひとつなのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
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「慈」―心のエッセンスpart7
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心は、優しさに触れると、まるでときめくよう♪ 正真正銘、真の優しさは人の心を癒す力があり、傷ついてしまっている心ほど、優しい愛のエネルギーは不足がちに。
塾生:昔、マザーテレサを知ってより、その存在は憧れでした。丁度、その頃。。私自身(の心)が折れてしまいそうな状況下にあって、彼女の慈悲深さ、愛?に救われる想いがしたのを覚えています。
センセ:そうですね。彼女に救われたとか、希望を見たといったような、影響を受けた方々はおられます。折れそうな心が救われた優しさは真の「愛」から。当時は特に、あなた自身の愛のエネルギーが足らず、欲していたためですネ。
塾生:ホント、その通りです。マザーは優しいだけではなく、同時に厳しい方だったようですが・・それは「真」の姿勢から?ではないでしょうか。
センセ:そうですね。優しい愛は、人の心に優しく響きます。愛が「真」の姿勢から発揮されていればいるほど心深く響き、やがて、心は癒えてゆきます。
すべての人に備わる「慈」は、人(の心)を優しく、包み込むような「愛」にも通じる心です。
創造主たる天が私たち人を見守る、優しい育みの心である「慈」は、人の心をよりふくよか(優しく)で、よりしなやか(柔軟)にあるように成長を促すためにあります。
自らの心を優しく、包むよう大切に育む、その親心はまさに―――「慈」の心。
「慈」とは―――幸せな人生へ臨むために欠かせない心のエッセンスのひとつなのです。。。☆。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
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