天への「敬意」

人はどれほど他の存在を大切に想い、大事にしているでしょうか。


「敬意」は、己の姿勢を改め礼儀正しく、その存在自体を尊び、丁重に扱おうとする心(想い)です。

現代社会では敬意の本質の伴わない、社交辞令のような想いも多く見受けられます。


私たち人は「凄い」とか「素晴らしい」など、優れたものを目の当たりにすれば感心したり、感動したりします。それがより優れたものであればあるほど、重んじ、尊いものとして敬います。


「敬意」の本質は、存在意義や存在価値を認め、「素晴らしい」と褒め称える、称讃する心です。

感嘆の喜びに満ちた好意的な気持ちです。


人は人格者や聖者、技能的達人等々、同じ人でありながら、人より秀でたものを持つ者となれば当然のごとく尊敬するでしょう。

両親、夫や妻、兄弟(姉妹)や親戚等々、先生などの恩師、先輩や後輩、友人知人・・・いづれも“尊敬に値する”と感じられれば敬うのは然るべきことです。


私たちの住む宇宙、そこに輝く星々、太陽、命溢れる地球。大空や大地、生命の源たる水・・・この命を育む、大いなる自然の素晴らしさは誰しも、時に感動し、感心し、感嘆の想いで眺め、愛で、見守り、畏怖や畏敬の念すら抱くこともあるでしょう。

天のみ意(こころ)のもと、神々様がお造り下さった“自然”は実に驚異的です。

「素晴らしい」と称讃、尊重されて然るべきものであることは言うまでもありません。

人は地に根差してこそ、生かされ、生き長らえることが出来ます。

“自然”はすべてのすべての創造主たる天の類稀なる恩寵です。その“自然”に生かされる私たち人もまた、自然の一部であり、天の恩寵たる存在ゆえに、大変尊い存在なのです。

人智を遥かに遥かに超越した、最も偉大なる最も優れた究極の存在であられる天を想う時、自然と深い感謝が沸き起こります。

その偉業を想えば、畏れ多くも実に素晴らしくまさに奇跡的なお働きに感動し、深い感銘を受けます。すべてが尊い存在であること、存在すること自体にさえも心の底から称讃の想いと歓喜に湧き、魂が震えるのを感じます。

天は、私たち人魂を含めたすべての魂が、いかに尊い存在であるかを“自然”を介して示して下さっています。


人が人を敬い、他の存在を尊重すればするほど、争いのない穏やかで安泰な和平が齎されます。それは、人主体の人類総幸福社会のためのお計らいが成されているゆえんです。

あなたがあなた自身の存在する素晴らしさに気づき、素直に「素晴らしい!」と心から想えたなら・・・

人社会の天国化、循環は始まっています。その素晴らしき想いに天は必ずや奇跡を齎して下さることでしょう。


すべての存在、すべての魂の究極のご先祖様たる天へ敬意を表することは、人社会の相互理解へと繋がります。

自由意思を与かる人同士が異なる意見(想い)を持ち寄りつつも、互いの存在価値を認め、相手を好意的な姿勢で受け入れ、大切に想い尊重するための実践であり、敬意の本質を知り、その幸せな人社会の根本たる気づきを深めることにもなります。


人が他の存在との関わり合い、支えあいの中で生き生かされていることを常に意識し、自分にとってなくてはならぬ他の多くの存在を大切に大事に扱う想い(心)を育み、人類総幸福社会に相応しい幸せな人と成りゆくために欠かせない想いであり、要素ゆえです。

天のみ意、その想いに心清らかに波長を合わせるならば、真の敬意も自然と湧いてくるでしょう。

魂が清らかになればなるほど、己の想念が清らかさ満ちるほど、天が創り賜うた素晴らしい存在を素直に「素晴らしい」と思えるようになります。

心の底から感心し感動すること、「素晴らしい」と感嘆し感銘を受けることは称讃を生み、心をより豊かに、想いをより清らかに幸せを運びます。


天の望む、人本来の幸せな人と成りゆくためには天を初め、関わる存在を大切に想い、大事に扱うように心掛けることは大切です。常に己の心を見つめ、その想念の清浄化に務めると共に、日頃より、何事も謹んで礼儀正しく丁寧な振舞いに努め勤しむことにより、豊かな心と清浄なる想いが培われてゆくことでしょう。






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