「義」は字源辞典によれば、供物を神に捧げ、ひたすら祈る人の姿が文字となったもので、その字形の意味としては「礼を行う美しい姿」を表しています。
そこからひいては、「正しいすじみち」や「道」、「正しく立派」の意味があります。
また、「義(ただ)しい」と読み、“正しい”と同じように用います。
一般的な言葉の意味としては、「正義や公共のために尽くす」や「君臣の間の道徳」が挙げられます。
人は古来より、己の心を治めることが難しく、なかなか「我」を制せぬゆえに罪深き事を繰り返して来ました。
そうありつつも、“聖(きよ)く、義(ただ)しい神のようにありたい”と、己(人)よりも優れた聖らかなる存在に礼を尽くし、ただひたすら祈ることで、人本来の正しき筋道を見出そうと、その導きを乞い、願ったのです。
自然と調和し、目に見えぬ精神世界の存在をより身近な存在として捉え、尊び敬い心を尽くして祈りを捧げ続けた先人たちから、現代の私たちは多くを学ぶことが出来ます。
究極の聖なるもの(天)を敬い祈ることが“正しき道”に繋がり、それをただひたすら信じることで「義」と成ってゆきます。
すべての創造主たる天が、私たち人本来の在り方として重要とお考えになる八徳(人の根本道徳)は、「愛」・「真」・「仁」・「恕」・「信」・「義」・「慈」・「悲」ですが、その中のひとつである「義」に想いを馳せていた時、
“恩(寵)に報いようと礼を尽くす心”との想い(お示し)を戴きました。
続いて、
“成すべき正しい筋道をゆくこと”とも。
この“礼を尽くす”の“礼”は、元々「道」の意味があります。
ゆえに「義」とは、
『天の恩寵に報いるために、成すべき正しい道を行くことに心を尽くす』ことで、これこそ、私たちが天に示さねばならぬ「義」の心なのです。
常に義(ただ)しくあるために、人は日夜天に祈り、その導きを願って幸せになってゆくのです。
私たちは「義」を、天との関係において考えようとしています。
私たちが今こうして存在するのは、天がましませばこそだからです。
そしてこれらは天よりの類稀なる恩寵です。
その恩寵に報いるため、天への「義」といえば、天が望まれること、“人類による人類総幸福社会造り”を自らの願いであると共に、己の事として望み、そのために今の自分ができること(成すべきこと)を行おうと姿勢を示し、心を尽くすことです。
“人類総幸福社会のために成すべきことを成せるよう”願い、人類総幸福化へとお計らい下さっている天の幸せへの導きを信じて“人類総幸福社会のために成すべきことを成せるよう”に、そのようにお導き下さるよう、一心に祈りましょう。
すべての人々がこれさえできれば、人による人類総幸福社会は足早に訪れるとさえ言えます。
つまり、私たち一人ひとりが幸せになると共にすべての人々が幸せになるのです。
幸せの魁(さきがけ)である私たちは、天への「義」に生きる人であらねばなりません。
© 2009 明心塾