真(まこと)とは、なすべきことを、たゆみなく、真っ直ぐになすことです。
「真心=誠」とは、少し異なる意味です。
母と子の生活を支えるために、真っ直ぐに働く父親の想いがほぼこれに当たります。
つまり、自分に対しては、非常に厳しく律するということです。
「愛」と「真」を比較しますと、かなり違った意味合いがあります。
180度違うのではなく、90度違うという表現が当たっていると思います。
ここから、愛と真が備わっていることを、「愛と真が十字に組む」とも言います。
因果律は厳しいものです。
それを適用する働きは真の働きであるといえますが、これを人に適用しますと、その人が、自ら自分が間違っていたことに気づくことができ、それを詫び、償い、今後に向けて修正することを促す働きをします。
これは、愛と矛盾するものではありません。
相補うものと言えます。
たとえば、子供が善い人間に育つように願うのは愛の働きです。
そのために、悪いことをした子供の手を叩くのは真の働きです。
人々が真を備えていることによって、社会は成り立っています。
人々に真がなければ、詐欺が横行し社会の秩序は乱れます。
通貨の仕組みも、人々に真があることによって保証されます。
交通信号の仕組みも、人々に真があることによって保証されます。
夫婦の間には愛が必要ですが、真がなければ、愛も虚しいものになり兼ねません。
お互いが義務を尽くさなければ、夫婦の仕組みが滅茶苦茶になるかも知れません。
天が、自ら成り出でられ、自らをお育てになり、時間・空間をお作りになったお働きは、真そのものだったのです。
われわれ人間も、まだまだ真が十分ではないのですが、徐々に天の本質を採り入れ、本当の「真」になる方向に進み始めています。
「愛」と「真」を実践する人が増えるにしたがって、人による人類総幸福社会造りが足早に成功してゆきます。
いづれの貢献であれ、何事を行うにも、自分を含めた周囲の環境への配慮、“思いやり”は欠かせません。
自分の“こうしたい”想いを最優先することによって、無理強いや過重となってしまっては本当の「真」ではなく、「愛」ある「真」の実践とは成りませんから、留意する必要があります。
真っ直ぐに成すべきことを行う:「真」の実践とともに、自分を愛し、天に始まり、自分を含めたすべての人が存在するに至るまでの、すべてのすべての存在を愛しましょう。
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