「慈」とは“優しい愛”です。
すべてを優しく包容する、寛容な心を指します。
字の源は「幼き芽を紡いで育てる心」つまりは、子を育てる“親心”に由来しています。
本来の“親心”は、一切のエゴ:親の都合如何に係らず、子を無条件に受け容れる真の慈しみ、慈愛に満ちています。
キリスト教における「隣人を愛せよ」や仏教における「仏(仏陀)の“慈悲”」などは、人の幸せを願って寛容な心で思いやり、優しく接する(包容する)ことを尊ぶ、教えです。
イエスも、釈尊(初代仏陀)も、人の世に生きながら、何人をも受け容れて慈しむ「慈」の心深く、聖者の中の聖者、“大聖者”と天之大み祖之御方様もお認めになられています。
聖者たちの「慈」からも、魂の霊格によって、受け容れる器は広く、慈しむ想いも深いことが分かります。
人は心の成長(霊層向上)に伴って真の「慈」を極めてゆくのです。
優しい気持ちで相手を思いやり、接する慈しみの心;「慈」は、すべての人の中に芽吹いています。
天上より見れば、人の心は“幼き芽”ゆえに、育んでゆく必要があります。
天の親心の“懐”の深さを前にして人の心は、無邪気な赤子のようでしかなく、むしろ、そのような素直で純真な心;赤心こそが真の喜びを、真の幸せを感じ得るのでしょう。
天上より発せられる優しい愛;「慈」の想いにより、魂は大いなる安心感を得ています。
その安心は平穏な心です。
潜在的、あるいは日常的な不安や不平不満などの不運を招くような想いに湧く必要のない心の状態は幸せそのものです。
常に、真の慈愛に満ちた清らかな魂、安らかな心なれば、人は、この上ない幸福感に満たされて生きてゆくことができるのです。
人の心、その“幼き芽”は、育みの途上ゆえに不穏な想いに揺れやすく、不安定です。
人は皆、心の“不穏”が引き寄せる不幸に足を取られながらも、天上より発せられる「慈」に励まされて前を向き、成長の歩みを進めています。
過去世より様々なカルマやトラウマを抱える中において、自らに降りかかる不幸と向き合い、相応に苦しみ抜いた結果、不幸なカルマは浄められ、心の傷(トラウマ)が癒えてゆくのも、その過程において「慈」の親心による優しい“励まし”があり、苦しみに向き合う勇気を戴いて、人は成長してきたのです。
「慈」の心により、魂は安心して成すべき事を自ずと悟ってゆきます。
励まされれば心強く、勇気を培います。
たとえ、今が、人生最悪の状態であったとしても“大丈夫。
うまくいく”と心からそう思えたなら、もう「最悪」などではなく、既に、今を越えています。
そして、“だいじょうぶ”と思えることは何よりの励みとなり、「慈」の心は育ちます。
不幸であっても“だいじょうぶ”。
いかなる結果も“うまくいく”。
これは、世の「すべてよし」の法則に則した想いであり、言うなれば、法則そのものが“励まし”なのです。
人の心は、自らの“想い”により弱くも、強くもなれます。
だからこそ、「慈」の育ての親心による“励まし”は必要不可欠です。
天の示す「慈」は、あまりあるほどの優しさに溢れています。
その優しさは、人ゆえに「あまり甘やかしては、本人のためにならない」と思われるでしょうか。
親の甘やかし方次第によって、子は自由奔放に育つものかもしれません。が、どのみち、人の自由意思が招いた物事は、本人の責任においてその物事に向き合うことが望まれ、世の仕組みは営まれていますから、親の甘やかしにより、子に都合のよい自由が与えられるほど、本人の成長段階に従って、厳しい鍛錬の道をゆくことになるでしょう。
人の心が、いかなる親心であれ、皆、人本位の“自由”に悩み、考え、生きる過程において「慈」の本質に触れ、その“幼き芽”は育まれてゆき、いづれは真の「慈」を会得されるでしょう。
「慈」は優しい育みの心。
その親心が人の心を育み、魂(精神)の成長を願って計らう上での子育て法である「飴と鞭」の、甘い“アメ”に譬えられるやもしれません。
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