愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。
愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
全てを我慢し、全てを信じ、全てを期待し、全てを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。 ――――― 聖書「愛の讃歌」
心に曇りがなく、罪穢れのない「おもい」は純粋です。
人が人を思いやり、その内なる魂の幸せを心から願う「おもい」が純粋であればあるほど、天はとてもよろこばれ、多くの幸せを齎し称賛されます。
逆に曇りの多い邪な「おもい」を持てば、自らその悪想念に気づかせるため、然るべき「お叱り;戒め」を成され諭します。
これは幸せな人魂を育てるための天の親心、愛ゆえの純粋な想いであり、純粋な愛の行いです。
「愛」は本来、かけがえのない、純粋な心、純粋な「おもい」です。
「愛」は、その対象となるものを
「愛でる」
「いとおしむ」
「したしむ」
「めぐむ」
「可愛がる」
等、とてもふくよかな性質を持っています。
思いやりや心配り、気づかい・心遣い等の「善い想い」は、自分本位ではなく、
相手に波長を合わせる想い、真心が込められてはじめて「愛」として活きるのです。
「愛する」とは、その存在を在るがままに受け入れ、相手の真の幸せを願い、心を尽くすことです。
それには自らが、幸せの真意を知り、真の幸せを追求し、幸せになろうと務めることはか欠かせません。自分本位の勝手な想い、自分と他を分け隔てる想いから不幸は始まります。
「・・でありさえすれば」
と愛する条件を掲げ、
自・他共に「愛せない」人が多くいます。
私たち人も含め、生きとし生けるものみな、かけがえのない命です。
命が命を育み、ともに支え合って生きています。魂が魂を生み創り、授かるこの命は、偶然に生み出されたものはひとつもなく、みな必然で、必要があって生まれ、存在しています。
支え合わなくては生きられない私達は、互いにとってなくてはならない存在ゆえに、尊い命に感謝し、その存在を敬い、尊重することは必然で、人が持つ素晴らしい特質でもあります。
自分にとって魅力あるものだけを大事にすることは本当の愛とは言えません。
たとえ、醜く劣って見えても、その存在価値が認められなくても大切にしたいと想う、大切にできる、それが真意の『愛』です。
人はともすると、己の尺度に当てはめて相手を計り、「私にとって心地よいか、悪いか」の判定を下し、当然のごとく 好まない となれば線引きをして遠ざけます。
ひいてはその存在をも否定しかねません。
己本位の想い・悪想念に囚われてしまうと、その存在を認めるどころか “こうあるべき” と自分にも他人にも要求します。
理想を押し付け 「・・ならば愛する」では、条件付きの愛の押し売りとなってしまいます。
これでは、純粋な愛とは程遠く、このような愛し方では、双方にとって幸せであるはずがありません。
特にその傾向にあるのは、より親密な間柄、家族や親友などです。
善くも悪くも馴れ合いや我がままにより、エゴが強く働いて、本来の「愛」ではない “自分本位の” 身勝手な想いが互いに独り歩きしています。
この場合、自分も相手も愛に満たされることなく不幸です。
すべてのひとに、天の恩寵である人本来の温かく純粋な「愛」は宿っています。
愛に満ちている人は、心がとてもふくよかで、より多くの幸せに恵まれます。
一切の見返りを求めず、心から愛してゆくことで「愛」は大きく育ってゆきます。無償の愛を注げば注ぐほど、人を愛すれば愛するほど、愛し・愛される人共に、愛に満たされ幸せになってゆきます。
愛は育むものです。
すべての人に、天上界のエッセンスとして宿っているものの、本人がすすんで、自らの魂や心をふくよかに、健全に育むことに務めなければ、愛に満つることはなく、幸せとは縁遠くなってしまいます。
心から愛せる人になるため、真の幸せな人になるために、数々の修練を活用し、魂を浄め、心を修めて、健全化を図り、愛することの素晴らしさを会得してゆきましょう。
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