「悲」とは、言うなれば“厳しい愛”です。
一般的に、人を哀憐れむ気持ち、同情や思いやりの心を指しています。
字の源は、左右に背いた不自然な状態に心を痛める様子を表し、つまりは、そのような不自然:道理に合わない状態を、道理に叶うよう正してゆく“真”による愛の想いです。
キリスト教においては、神が人々の苦しみ、心の傷みに情けをかける憐憫の想いを、また、仏教においては古くから「茲心非心(この心、心に非ず)」:己の心を中心とするのでなく、相手の心を心として生きる。
“人は皆、平等である”という自覚のもとに生きる心が「慈悲」であると説かれています。
いづれも、社会において人同士が“怨親なく、等しく、相手の幸福を願う”ことに通じる「悲」の心、あるいは「慈」の心であることは言うまでもありません。
それゆえ、人類総幸福社会を成すための“人の根本道徳”として、天は示されています。
“真”そのものの天は、成すべき事を真っ直ぐに行うため、自らを厳しく律する姿勢を貫いておられ、そのみ意のもとにすべての御方様方が等しく、み意を共有されているゆえに、天上界(無の場、すべてが始まる場)は純然たる「天国」です。
この地上(神界・人類界)もまた、天国のような幸せな社会を成してゆくためには、やはり、真の姿勢にて厳しく律する「悲」の心がなくては成らず、本質たる“真”の想いは一貫されています。
その厳しさは“真”より発せられる「悲」の想いです。
人の成すべき事は“人類総幸福社会”造りです。
その“成すべき事”を真っ直ぐに行うためには、自己を厳しく律し、心の成長を図ってゆくことは必要不可欠です。
人は、道理に背いては本来歩むべき正しき筋道をゆくことができず、不幸でしかありません。
したがって、そのような不幸に陥らないよう、不自然な状態:不健全な心を健全にしてゆくことが人類総幸福社会には望まれています。
そのため、「悲」の観点より、自分であれ、他人であれ、心の傷みや苦しみを“すべての人の不幸”と捉え、進んで浄化することが望ましいのです。
人類総幸福化を願って共に幸せになるために、相手の心に、心を重ね合わせて浄化に務めることは、天国社会において非常に重要です。
天国のような幸せな社会に、自分都合の「好き」や「嫌い」に偏った見方、差別的な想いが在っては、天国とは成りえません。
偏見や差別に基づく価値観により、人は不幸を招いてきました。
人の不幸な価値観(想念)、そのような不健全な心の状態を、聖らかに育み、人類総幸福社会に相応しい心へと想念を向上させてゆくには、厳しく己を律し、相手の問題を自分の問題として取り組み、解決を図る“厳しき愛”は欠かせないのです。
浄化による禊ぎ(浄化現象)は、捉えようによっては厳しい試練と感じることもあります。
しかし、その厳しき育みを恐れて無難に、当たり障りなく過ごしていたのでは人は成長せず、人類総幸福社会は一向に訪れないでしょう。
「悲」は、“真”より発せられた人類総幸福社会にかける心であり、等しくすべての人の幸せを願うゆえの厳しき愛です。
今の自分を越えて、相手を自分と同じ人として、“ともに幸せに”と望む時、天は讃えて幸せを齎し、さまざまに奇跡は起こります。
人の「悲」の心が、成熟すればするほど、人の世の人類総幸福社会は足早に訪れるでしょう。
それほど、「悲」の本質は、天上の“真”と“愛”の想いが十字に組むように、絶妙なバランスで織り込まれています。
その想いは、人育ての“鞭”、すべての人の幸せを願って人類総幸福社会を育む「愛のムチ」と言ってもよいかもしれません。
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