「恕」とは、人を思いやる心です。
「忠恕:ちゅう“じょ”」とか、「ゆるす」などと読み、用いられます。
人が、真の幸せに生きるために欠かせない心の在りようを、天は「八徳(人の根本道徳)」に示されており、人が、本来の正しい道徳性により自ら、幸せを求めて人類総幸福社会を築いてゆくための指針として、八つの徳目のうちの一つであるこの「恕(=思いやる心)」を重んじ、推奨されておられます。
思いやりとは、他人の身の上や心情に心を配ること、同情の気持ちや思慮といった意味で理解されています。
が、そもそも、他人へ心を配るためには、思いやる本人の心が自身の“思いやり”に対して正直であること、“赤心”や“真心(まごころ)”が必要であり、それらの“真な心”なくしては、本意の思いやりとはなりえません。
古代中国より伝わる道徳観の中に、「恕」の心は“人が一生を掛けて学ぶべき道”といった教えがあります。
また、日本においては「恕(じょ)」という文字を「ゆるす」との独自の読み方があり、古来より、巫女(女)が祈りを納(口)めて真意(神意)をはかり、神が人を赦すことを“思いやり”として捉えていました。
お天道様(天)や神様(仏様)が、慈悲深い“思いやり”をお持ちであることは、救いを求める人々の心の拠り所であったと思われ、それだけに“思いやる心”は重く受け止められていたことでしょう。
人類総幸福社会へ向け、足早な歩みを進める現代においては、世界的にますますこの“思いやり”は重要視されてゆくことと思われます。
日常、人は、霊的成長に伴って培われた「思いやり」の道徳観により、自分が他人に望まぬことは、自分から他人へも望まない、言わば「されたくない」ことは「しない」のは自然なことですが、
他に対し、自分が不満に思うことがあれば、逆に他からそのような不満を買うようなことをしていないか、自分が「こうして欲しい」とか「こうあって欲しい」などと望むことを、自分から率先して行っているか。
など、己を省みる必要があります。
「恕」は、自分の理解を超えて、他人:異なる考え方を持つ者に“情けを掛ける”といった崇高な“志”を指すことであるとの捉え方もされますが、自己の内面、心の在りようを見つめて人が本来持つ、純粋な心に立ちかえり、自分も他人も、その本来の心は同質であると会得し、その純粋さそのものを重んじられる“心”なのです。
したがって、「恕:思いやり」を心掛けるならば、我が身を省み、自分自身の心を推しはかることは欠かせないと言えます。
私たちは常に、霊的な進化成長をはかっています。
自分の内面、心の在りようを見つめ続けることによって心が悟ると、他との違いは、単に、文化的背景や置かれた状況や立場、与えられた役目の違い、精神世界から鑑みれば、霊的成長過程の違いであり、想念に由来する個性であることが分かります。
そのことを単に、頭で「分かる:理解している」ということではなく、悟ることによって実際に、日常生活や実社会において、「理解できない」や「相容れない」などの他者との隔たりや異質性として感じることもなくなってゆきます。
自分の想いを他人に圧しつけるのではなく、「自分の想いを推して考え、他人の想いを推す=思いやり」は、他人のことを、自分とは「似て“非なる者”」とせず、他人に自分を重ね合わせて自分の事として捉える、他人事ではなく我が事のように考えられる心であり、その心は平等性や尊重性に長け、日常的な平穏状態にあることが望ましく、またそのような心の状態が反映されています。
天が示される「恕」は、人の本質である純粋な心は悪想念・善い想念どちらも熟知しつつ、常にその想念を省みて自分を律し、他人も自分も根本的には同じ性質であることを会得し、“自分:我(われ)”も“他人”もなく思いやることの出来る心なのです。
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